2014年2月27日木曜日

巨大資本の領域拡大にかんする覚書

日本の日産自動車がブータンで事業をはじめるそうだ

日産、EVでブータンの幸福度アップへ
http://news.goo.ne.jp/article/wsj/world/ecoscience/wsj-20140224-05.html

記事タイトルが奮っている。二酸化炭素排出ゼロを掲げるブータンで、電気自動車を動かすということは、その電気は化石燃料には頼らないということになるだろう。狙いは販売台数や利益にとどまらないということだが、なんにしても不気味な記事だ。

このニュースを見て真っ先に思い出したのは、トルストイ「イワンのばか」だ。強い軍隊やお金をイワンの国でばらまい て、競争させ滅ぼそうとする悪魔に対して、イワンの、ばかばかりの国民は何もしない。結果悪魔が自滅するという話だが、人間の根源的な欲望と、それを否定 する、人間の根源的な何が正しいのかを追及する心について、わたしは何度も考えている。
今回のニュースはグローバル巨大資本が小国に及ぼす影響を考える意味で端的なケースであるように思われる。もちろん イワンのばかのようにシンプルな物語とはならないはずであるが、最近の、科学技術が先鋭化し分化し、産業は巨大化し過去、現在、未来にわたっての人類規模 で損得勘定が常識的になってくるにつれて、「人間はなんで生きるか」のような形而上学的問題が、近代に捨て去った宗教的問題とともに近づいてくるのを感じ る。
とりわけロシアにおける文学や民話に対しては、その正教の解釈について興味を覚えているがそれは次回に書きたいと思う

2014年2月12日水曜日

都知事選に関する覚書

都 知事選が終わり、ある人にとっては予想通りの、ある人にとっては非常に苦々しい思いを持った結果となった。自民・公明両党の支持を受けた候補者が低い投票 率も手伝って危なげなく当選するという図式は従来通りのものともいえる。なにが従来と異なっていたのかを考えるうえで、やはり争点と、その問題の大きさを 無視することはできないだろう。
つまり、かつての争点の大きさに比してエネルギー政策の大きさは国家規模の構造転換の問題であって、貧困やブラック企業の問題と並置することによって結果的に問題を心情的に矮小化している。
原発問題とは国家エネルギー政策からはじまるあらゆる構造的問題につらなるのであって、それが転換するのであれば、 あらゆる利権構造を転換することになる。たとえばそれは小さな政府を目指し地域による自治を促進するまさに構造改革なのであって、現状の利権構造や社会的 プラットフォームを維持したままそれをするのはできないのであるが(そして、それは早急に転換すべきだと思うが)結果的に反原発という論点を左派からリベ ラルな議論の遡上に乗せる試みは失敗に終わったと言わざるをえない。
基本的に大きな政府を志向し、既存の利権構造もしくは集票構造を維持しようとする左派が原発問題(とそれに伴う支持基盤)の独占のために、もっとも重要な問題を野放しにした、と解釈している。
細川・小泉連合に対する左派の激しい批判を目にするたびに感じられるのはこの国の左派、ひいては民衆全体の知的水準の問題が国家的意思決定に影を落としているということである。
反原発を掲げて立候補した宇都宮氏は前回選挙で共産・社民の組織的基礎票60万に30万票を上乗せした90万票しか取ることはできなかった。今回選挙も同様である。
しかし今回の選挙で明らかになったのは反原発派とみなせる層が潜在的にその倍あるということである。
エネルギー問題はイデオロギーの問題ではない。にもかかわらず保守派からの参入によってはじめて2年越しに議論の遡 上に上がった国家的な、未来をどのような国にするか、(大きな政府か、小さな政府か―利権構造の温存か、転換か)という問題を、膨らませムーブメントを起 こすことを阻んだのは(その決定権がゆだねられていたという意味で)他ならぬ左派であった。
ここにおいていままで知的層とされていた(選挙民としての)リベラル・左派の知的水準の低下をみずにはいられないのである。
問題はいくつか考えられる。
ひとつはさまざまな問題・争点のなかで、どの問題が大きいのかを考える知性。
つぎに、その問題の実現可能性によって、投票行為による効果を考える知性。
つぎに、問題をかかげた、その人物評価によって、ときに問題を矮小化する心理である。この点はとくに左派の細川への攻撃によって感じた。
つまるところ、多くの理由からひとつの行為が導き出され、それによってさまざまな影響を与えるという見通しや戦略を 持たないまま、実現可能性や問題に付随する影響でなく、人物の好悪やイデオロギーで投票するわれわれの知性に問題があるのであり、そのような意思決定しか できないわれわれが民主主義国家の国民として著しく程度が低いのだと感じている。
しかし保守というものの変質もまた激しく、現状のままでは遅かれ早かれ破綻する大きな政府というものが崩壊する際 に、はたして現状を維持できるのか、危惧をもっている。その際までにもリベラルの再構築は早急に行われるべきだろうが、その点でも最大の問題はわれわれが どれほど民主主義というものを理解しているのか、という問題に収束してくる。つまりはひとりひとりの知性の問題である。

今回の件でふいに思い起こされたのは、ジョージ・オーウェル「1984年」の、トマス・ピンチョンによる解説であ る。オーウェルは自身を民主社会主義の擁護する立場であったが、それは英国における労働党を意味する「公式の左派」とは異なる。彼は第二次大戦の始まる ずっと前から英国労働党も一部は潜在的にファシストであると見做すようになったとある。
資本主義と闘う運動を装いながら自己の権力の獲得にいそしむ姿をみてきたからである。
つまるところイデオロギーのいかんに関わらず、権力、利権構造が存在し、その権力や権力構造にたいして一貫して批判したのがオーウェルであった。
沈みゆく船のなかで、どちらが船長になるかを争うようなことも起こるのが権力や利権構造である。財産を捨てなければ船が沈むというとき、適正に判断を下せるのは権力という財産を持っている者ではなく、漕ぎ手であるべきだ。