3年前の震災と原発事故を通して見えてきたことは一言では説明できないが、自分にとっての問題は大きく分けて二点に集約されるように思われる。
ひとつは「日本は果たして近代国家といえるだろうか」
原発事故によって引き裂かれたのは土地と人だけではない。人と人も簡単に引き裂いたのはその意見の違いをすり寄らせる、あるいは対立意見もまた自分を含む共同体の問題として弁証法的に考えるだけの知性がわれわれに無かったからである。
とくに個人的な経験―それはたしか直後の高円寺の反原発デモ(わたしは行っていない)のアンセム「ぜんぶウソだった」の合唱へのぬぐい難い嫌悪感はずっと続いている。
なぜ不快だったのか。高円寺は自分にとって、上京以来ライブを繰り返した土地でもちろんそのデモには知人も多数参加していた。「ぜんぶウソだった」には、「悪いのはアイツだ」として糾弾して溜飲を下げる効果がある。否、それ以外の効果はない。
なぜそれがいけないのか、それでは同じことがまた起きるからである。責任を自分以外になすりつけて攻撃するのは高度
な社会のありかたではない。問題を徹底的に検証し二度と同じ過ちを繰り返さないようにすること、このこと以外にやるべきことはないのではないか。しかしそ
れは成されず、非常時に際した心的システムの構築はあとまわしにして、平時にのみまわる心的システムははっきりと回復している。何故か、「ぜんぶウソだっ
た」として人々が最低の企業―最低の資本主義機構と自分との関係を切り離したからである。
原発事故以後のわたしが本当に嫌だったのは、この種の切り離しを平然とやってのける程度の頭しか持ち合わせていない
人が音楽をやっている人のなかにはたくさんいる、ということだった。そのことが自分に音楽をこのままやっていてよいのだろうかと考える程度には嫌悪感を覚
えた。
このような状況が自分には、戦後「だまされた」といって敗戦の責任を軍部、大政翼賛会と報道に求めた大勢の人々への疑義を呈した伊丹万作の考えと類似していると強く感じたものだった。
このような心性こそ近代国家における人々にとって捨て去らねばならない考えであって、敗戦、それも無条件降伏という最悪の事態を招いたのは非合理な選択とつたない状況判断によって破滅するまで歯止めがきかない人々の心の習慣であったように思う。
戦争に負けるということ、それによって巨大な負債を被るという悲劇を通じて学ぶべきだったのは二度と戦争をしないと
いう厭戦感より以上に、なぜ負けたのか、負けないためにどうするべきかということ―すなわち心の習慣を変え近代を知ること、西洋人より西洋を知ること、徹
底して合理的に物事を考えることであったように思う。しかしながら国家的な悲劇を通じて心の習慣を変えるという試みは原発事故によってもまた十分に行われ
たとは言い難いだろう。責任の自己との切り離しと問題の矮小化が常だからだ。
もうひとつの問題は「非常時にどのようにふるまうか」である。
ここで考えたいのは若松孝二監督「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」である。この映画のクライマックス「勇気が
なかったんじゃないか」という少年の糾弾こそが拍子抜けするほどシンプルな、あの事件の真相だと思うが、それゆえに問題は、はっきりと心の習慣にかかわっ
てくるものだと感じる。
ハンナ・アーレントの指摘、悪の凡庸さの問題はナチス・ドイツだけの問題ではない。権力機構のなかでの権力との関係
性において人は簡単に人間性を捨て去ることができるということはミルグラム実験などに明るみに出ているが、人間はそのような存在だと理解しておくことが非
常時にそうした空間に自分が置かれたときに、同調を強いる幻想を破る助けとなる。
幻想は加害者になるとしても被害者になるとしても同じである。山岳ベースで誰の判断が正しかったのかといえば、脱走した者であるだろう。
非常時に必要なのは、平時にしか回らないシステムに縛られること(そうしたシステムに縛られた集団の決定に従うこと)なく、それを破る措置を講じることであるが、その非常時はなにも災害においてのみ発生するわけではない。
人間同士の関係性、閉鎖的な空間と特定の権力構造が醸成されればそのなかでルールが権力者によって自在に書き換えら
れることを示している点で山岳ベース事件も共通である。しかしもうひとつ、破滅へ向かうための条件がある。それは最初の問題にかかわる、人々の心性の近代
的合理主義化が、なされていないことである。
また、さきの震災においては、大川小学校のように、校庭に生徒を集合させておいて、50分の猶予があり、津波が迫っ
ている中、裏山に避難することを提案した生徒がいたにもかかわらずなんら対策を講じなかったことで多数の犠牲を出した例も存在する。このようなことが起き
ないようにするためには、新しいマニュアルをつくることよりも、新しい心の習慣を持つことが役に立つだろう。命を失うことに匹敵するほどの守るべきルール
はないだろうから。
そこで自分の個人的な、生い立ちに関わるモチーフとしての海が立ち現れる。
三島由紀夫「豊穣の海」における最終巻「天人五衰」における一節にこんなものがある。
海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けようのないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、絶対の無政府主義(アナーキー)。(新潮文庫 p7)
子ども時代の海は恐怖の象徴であった。そこがルールの及ばない領域であるからである。漁師町であったから、大人たち
のなかには海で死んだ者もいた。友達の家で口笛を吹いてそこの友達の父親に叱られたこともある。悪い風が吹くという迷信である。それほどに海はコントロー
ル不能の、カオスであって、その領域へ入り込んで収穫して帰還するということが海の男たちにとっての生活であるということは、漁師町の子どもにとっては自
然とわかることであったように思う。カオスにおいて、死がすぐ目の前に存在する領域に、想定外という概念は通用しない。それは死を意味するからである。だ
から海のアナキズムとは生存と―収穫という意味においても―深くかかわる。
要するにこういうことだ。平時にしか適用できないルールに縛られているなかでものうのうと生きられるという幻想は終
わった。人々の心の習慣という意味で近代というものが幻想であったことも明らかにされた。そして封建的心性をもつ人々が権力をもつことは矛盾した空間を生
み出し破滅に突き進むことも明らかである(それは封建時代の貴族的精神という名の権力のセルフコントロールが働かないぶん陰惨になる)。
ここから導かれる結論はなにか―海のように流転する世界像をもって、カオスの知恵者―アナキスト―近代思想としてのアナキズムの理解者となること。
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