2014年4月24日木曜日

存在の耐え難さに対する認知的システムに関する覚書

シアターイメージフォーラムで「アクト・オブ・キリング」を見た。

“アクト・オブ・キリング
1960年代インドネシアで行われた大量虐殺を加害者側の視点から描いたドキュメンタリー。60年代、秘密裏に100万人規模の大虐殺を行っていた実行者 は、現在でも国民的英雄として暮らしている。その事実を取材していた米テキサス出身の映像作家ジョシュア・オッペンハイマー監督は、当局から被害者への接 触を禁止されたことをきっかけに、取材対象を加害者側に切り替えた。映画製作に喜ぶ加害者は、オッペンハイマー監督の「カメラの前で自ら演じてみないか」 という提案に応じ、意気揚々と過去の行為を再現していく。やがて、過去を演じることを通じて、加害者たちに変化が訪れる。エロール・モリス、ベルナー・ヘ ルツォークが製作総指揮として名を連ねている。山形国際ドキュメンタリー映画祭2013インターナショナル・コンペティションで「殺人という行為」のタイ トルで上映され、最優秀賞を受賞。14年、「アクト・オブ・キリング」の邦題で劇場公開。”(http://eiga.com/movie/79459/)

実は知り合いのラーメン屋の店主からほんの少し前、インドネシアでラーメン屋をやらないかと誘われていた。その人は数十年前インドネシアから来ていた出稼ぎの人と仲良くなり 帰国後も連絡をとっていて向こうでその友人が店舗を出すときに手伝いに行っていたようで、自分でも店を出そうとしたときにわたしに声をかけたようで、向こうでの不自由のない生活について聞かされて正直すこし揺れたのだが、結局断った。その時、はっきり言ってインドネシアについての知識はゼロだったが、この映画を見たあとインドネシアで商売をするということが何を意味するのかを考えると商売人としてのその人の逞しさのようなものにある種の尊敬を感じた、が心の底から行かないで良かったと思った。

映画のはじめからとても奇妙だった。自分の殺人を嬉々として語る人々、叔父を殺された被害者側の人が加害者にその経過を語る空間、加害者が被害者を演じる、過去いかなる不正を自分が働き、それによって権力をものにしてきたか、華僑であるという理由で華僑の恋人の父親を殺した話。これらがあっけらかんと語られるときに戸惑うことになる。

この映画について考えるとき、システムの問題と個人の問題との関係を考える必要がある。
インドネシアの虐殺がいかなる理由で起きたのか、 背後に透けて見える大国間の覇権争いと歴史的結果としての、どこかで見覚えのある大型ショッピングモール。
そして映画の端々に現れる日本企業の製品。
それがこれらはわれわれと歴史的に地続きの話なのだと感じさせるのだ。
近代においてイデオロギーの対立の名を借りた権力闘争が行われたことは明らかであるが、国際的な規模でそのようなシステムが適用され、その当時、そしていまもなお暴力が身近に、かつプリミティブなかたちで放置されている、これがインドネシアの、そしてそれを含む全体としての世界の構造的問題である。

個人の問題として考えた場合に、この映画は、人間が人間を殺すことについての深い考察を与える。過去いかなる政治体制においても人間が人間を殺すことを無条件に禁じたシステムは存在しない。冒頭のヴォルテールの言葉“殺人は許されない。殺した者は罰せられる。鼓笛を鳴らして大勢を殺す場合を除いて”のとおり仲間のために殺すことは禁じられていないからだ。ハンナ・アーレントの指摘「凡庸な悪」という問題が近代の大量殺戮を可能たらしめてきたことの重大な要因であると考えれば、これら権力を握る虐殺の実行者 たちを、あるいは100万人を虐殺したインドネシアの軍事政権、あるいは国民が報復を恐れて匿名でしかこの映画に協力できないインドネシアという国をひとごとだと言うことはできない。

非人間的なシステムの当事者となるかどうかを人は選べないからで、おなじような環境でおなじような立場に立ったときに自分は どうするかという想像力が問われる。それがシステムのなかで許容されていたとしても、仲間でない人間を殺した場合に、時には得られる名誉と富と裏腹に精神に与えるダメージは自分で自分に押す烙印であろう。その理由に、彼らは殺人の記憶というものと後々まで付き合うことになる。その記憶をどのように処理するかという過程で起こる矮小化や合理化、正当化はこの映画を見ている側の認知的不協和と共鳴する。

なぜならばこの映画は主人公であるアンワルという人間が過去の殺人行為からいかにして解脱するかという試みに大半の映像が割かれているからである。 はじめは虚栄心からと考えて間違いないものが、経緯はわからないが途中から過去の苦しみからの解放を目指すようになる。映画を通して救われようとするアンワルに製作者がおしげもなく協力することによって、観客はアンワルの解脱への魂の彷徨に付き合わされる。印象的な滝のシーンで死んだ被害者から感謝されるモチーフも、「殺すことによって救済する」という、歴史的に幾度となく繰り返されてきた虐殺の正当化の口実を、彼自身が信じたいという願望が作らせた。しかしそんな戯画こそが監督が撮りたかった“彼らが生きていくために、どんなうそをついているのか。”(『アクト・オヴ・キリング』- ジョシュア・オッペンハイマー監督インタヴュー http://blogs.yahoo.co.jp/farida_firdaus07/26071528.html)であったようだ。そのことに関して、この監督の残酷さを感じずにはいられない。

おそらくは他の加害者と比較してアンワルという人間がナイーブだった、ということに過ぎないように思われる。アンワルが持っていた葛藤が映画として、もっとも面白い「素材」だったに過ぎず、すべての加害者が後悔の念を持っている筈がない。わたしは殺人者のみならず、直接加担していなくてもそれを黙認したもの、かげで指示をだしたもの、それらすべての、自らの悪の正当化する人々を私自身〈よく知っている〉。話はそれるがギャングの会話にところどころ差し挟まれる下品な冗談も、小さい頃からよく耳にしたようなものそのものに感じたし民兵組織の人々も、どこかで見かけていた人に非常によく似ていて、ある種の既視感があった。

この映画は過去、そして現在のインドネシアの情勢に対する問題提起や周辺諸国への批判というような、ものではなく、アンワルという、無名の、凡庸な、だが殺人者である人間におしげもない援助をすることで、彼がその魂を解放しようとする様を記録することでその実、自身が自分という存在に耐え難いという状況に陥ったときに、どのように自身を回復しようとするのかという心理的メカニズムについての冷酷な記録である。この映画をみることによって人間はいかに弱いのかを理解させられるのだ。
しかしこのような映画を見るにつけ、人類の問題のフェーズが、イデオロギーや宗教にあるのでなく、システムと個人の関係にあるのだということを提起しているように思える。そして、俳優でなく凡庸な個人をアクトならしめるものも、それを可視化させているものもまた昨今のシステムであるということについて考えるとポストモダンの時代における困難さが見えてくる。
個人的にはこの点においてニーチェ思想における超人についての精査をしようとしている。


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