2014年7月28日月曜日

ここ最近で印象にのこった会話

アナログレコードリリースのオファーがあり「GYPSY HOUSE」のリマタリングをしている。

T美術大学院生Sくんとの会話、コンテンポラリーアートの現状は音楽の状況と似通っているようだ。教授からも、日本でやることの先のなさは指摘されているそう。それに対して、地元というものへの帰属意識を捨てずにやることへの欲求のジレンマ。「依怙地になっているだけかもしれない」という言葉が印象的。
卒業後の展望についても。労働時間と制作時間との配分。制作に必要なものは脳がそのために動くための容量を必要とする。労働がその容量を圧迫することは不可避だろうと思う。
制作のなかでもっとも重要な時間―なにをつくるかを決定する時間のためには抽出された純粋な思考が必要である。
自分に身を置き換えてみると音楽をつくることはパターンの組み合わせで可能。言葉を紡ぐことのために孤独のなかでを過ごし、そのなかで思考がはばたくような時間が必要。問題はその状態までもっていくために、日常生活でどれだけ離れてしまっているかだ。深いところまでいくためには孤独な時間(t)が必要だとして、その時間は日常生活から純粋思考までの距離(d)

固有な値(X)が自分に沈み込む速度の個人的資質だとして、

日常から思考への距離(d)=資質(X)×孤独な時間(t)

となる。dとXが不変だとするとtがどの程度必要なのだろうか。現状でtは足りていない。それが問題だ。

深夜、たまたま会ったレコード屋Kさんとレコードの四方山話。商売道具としてのレコード専門知識が労働力として非常に安く買いたたかれている現状、印象にのこったのは企業としてリスクを回避し、短期的な利益のために長期的な利益のための投資を怠る傾向。専門知識を持ったものの養成よりも単純労働者を必要としている現状。

最近みたニュース番組で言っていた「こうすればうまくいく、という規範の共通認識があれば多くのひとびとはそれの規範にしたがうが、どのみちうまくいかなくなる、という展望のもとではそういう規範は無力化する」という言葉とだぶる。しかし、短期的な利益もそもそも計算できない状況では、長期的な展望をもつ以外にない。いずれにせよ合理的ではある。

2014年7月23日水曜日

近況

前回の更新からまたずいぶん経ってしまった。ここ3か月で起こったことは悲惨を絵に描いたようなものだというには早すぎるかもしれない。それは今後ずっとにかかわるものだからだ。
しかしそれはまあいい。
去年の10月に書いた「TSUBOUCHI」についての解説を続けてみようと思う。
この作品は真実が個人の数だけあるということを知ることによって作られた。曲ごとそれぞれにある種の真実がある。それを並べることで作った人間が何を意志しているのかを説明しようとした。そしてそれはある程度成功した。自分にとって。それだけだったと言えるだろう。その間激しく自己と対話して疲弊してしまった。
そうまでしてやらなければいけなかった仕事は終わった。
今、ここで生きる人々がそれぞれに、それぞれの現実を生きている。そして現代では、個人が現実をカスタマイズしながら生きるのである。カスタマイズされた現実を生きる個人の集合体がなにを意志するのか、それは時間が明らかにするだろう。
問題はそれが不可逆であるということだ。便利さを求めて幸福を失うように、それを一度手にしたら人は捨てることができない。
あらたに何を意志するのか、それは「ここではないどこか」にあるようだ。どこかを希求してデラシネのように生きてきたわたしが、「TSUBOUCHI」では何たることか、ここを必死に見据えようとした。
おもえば本質的に、相反する世界、ふたつの世界の境界線上で両方に足を置いているのが性にあっている。-marginal man
何年かに一度起きる、運命の流れに巻き込まれるように感じる。

先日「コクリコ坂から」を見た。劇中に海を船が滑って行くさまを見て、昔のことを思い出した。
まだ函館に住んでいたとき、真夏に東京にライブツアーで行って、深夜バスで帰って明け方青森からフェリーで津軽海峡を渡る。フェリーの端から函館山が見えて、ゆっくりと近づいてきたとき、訳もなく涙が出そうになった。懐かしさというにはさして時間が経っていたわけでもない。しかしあれほど帰ってきた、という気持ちになったことはない。いまそういう場所があるのか、ないのかもわからない。思えばずっと海は身近にあったから、そういう記憶からはじめたいなと思う。